更新日:2020年10月7日

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齋藤茂吉文化賞受賞者1-10回

第1回(昭和30年度)

無着成恭(むちゃく・せいきょう)

昭和2年生まれ。昭和23年3月山形師範を卒業。南村山郡山元中学教諭となり、昭和29年駒沢大学に進むまでの6年間、山村の子供達の教育に当ったが、戦後の混乱と疲弊の辺地に新しい息吹を与え、生活教育実践によって教育に新分野を築いた点、またその教育実践の集積である『山びこ学校』が全国的な注目をあつめ、映画化されるに及んで、この教育が全国教育界に大きな影響を与えた。

また、全国の無名の若い教師に自信と勇気を与え、若い世代に希望を与えた。

  • 昭和54年 第3回正力松太郎賞受賞

酒田美術協会(さかたびじゅつきょうかい)《酒田市》

酒田美術協会は、本間美術館の運営母体として設立され、学童を対象とする美術教室の開設、文化財の保護と顕彰を行うなど、活発な活動を行った。

川崎浩良(かわさき・こうりょう)《天童町》

郷土史家。明治8年天童町生まれ。紅花・薄荷商問屋川崎利兵衛の長男。本名は幸平。父の代に薄荷で大損害を蒙り破産したため、山形中学校を五年で中退、天童小学校の代用教員となる。22才で上京し、洋画家たらんとして黒田清輝に師事しようとしたが、色盲だったため入門を断られ画家になることを断念。昼は逓信電話局に臨時雇として勤め、夜間は国語伝習所や外国語学校に通学して苦学を続けたが、明治34年、山形日報社長佐藤啓に認められ帰郷して同社に入社、以来「庄内新報」の主筆、「山形新聞」編集長と昭和6年まで新聞界で活躍する。

山形新聞の編集長時代、美術に強い関心を持ち社会文化政策として美術の振興につとめるため美術展覧会を開催、在京の郷土出身作家の作品を一堂に展示した。その後、出品した郷土出身作家によって「望郷会」が組織され、以後数回、美術展覧会が開催された。

戦後の「山形県美術家協会」の組織、県総合美術展覧会の開催と、県美術界の発展途上において、中央の大家達との指導交流に大きな貢献をなした。

昭和7年、山形市史の編纂事業が始まると書記として調査に参加、昭和11年からは編纂主任として執筆に当った。戦後間もない昭和21年秋、「出羽文化同交会」を作り毎月自宅で例会を開き郷土史の研究に努め、多くの郷土史研究者を育成し、また「出羽文化史料」「山形の歴史」をはじめ多くの著書を自費出版した。

昭和22年以来、県文化財調査委員として県内に埋もれている文化財の指定と保護・顕彰に尽力し、更に昭和23年、山形県文化財保護協会の設立発起者として常任理事となり、自宅に事務所を置き、機関誌「羽陽文化」の編集・主筆に当り、以後没するまで同誌の編集発行を続け、県文化史の研究・発表の場に尽くした。

第2回(昭和31年度)

須藤克三(すとう・かつぞう)《東置賜郡宮内》

児童文学者、教育者。明治39年東置賜郡宮内生まれ。多蔵・ていの三男。父は『流蔭』と号したホトトギス派の俳人。宮内尋常小学校高等部、山形市師範学校卒業。大正15年より宮内小学校の訓導となるが、昭和3年上京し日大高等師範学校夜間部に入学する。卒業後は杉並区高井戸第二小学校に勤務。この頃生田蝶介を知り、生田の主宰する「吾妹」の同人となる。昭和6年7月歌集『流蔭』を自費出版。10月には詩歌「栴檀」を主宰した。「栴檀」は昭和19年3月まで続く。

昭和15年3月教職を辞し、国民教育図書に入社。昭和17年小学館編集局文化科学課長となる。昭和20年4月戦災に遭い帰郷。山形新聞論説委員兼文化部長(後に嘱託)となり「山新短歌」(YBC短歌)の選者として後進の指導にあたった。その頃に当時山形師範学校生だった無着成恭とあい、生活綴方教育について指導助言した。昭和26年に無着指導の「山びこ学校」が出版され、これを機に<山形県児童文化研究会>を結成した。さらに翌年には須藤の発案により山形新聞誌上で広く童話を公募。その常連投稿者と児童文化研究会の会員により昭和29年<山形童話の会>をつくり機関誌「もんぺの子」を発行する。第1回日本児童文学者協会賞受賞作「山が泣いている」(鈴木實・高橋徳義ら合作)はここから生まれた。

昭和43年、61歳のとき最初の本格的創作「出かせぎ村のゾロ」を出版。以後その続編として「友情とつげき隊」「出かせぎ村の忍者たち」を発表し、過疎の問題に取り組んだ「生きてろお化け村」に至るまで、山形という地域に即して書き続けたことは、ほかの作家には見られない特色である。

また、オルガナイザーと評されるようにさまざまな会を結成し、自ら会長として率先し会を盛り上げ、山形県の児童文化の発展に尽力した。昭和37年<山形県芸術文化会議>(昭和46年より会長)、昭和45年<山形子どもの本研究会>、昭和49年<山形とんと昔の会>など。昭和56年には<やまがた児童文化会議>を結成することにより、これまでの児童文化運動を組織化した。この間、昭和51年には児童文化の市民権獲得運動を展開し「子どもの本と児童文化のつどい」を開催。翌年運動の輪は東北,北海道まで広がり「東北・北海道児童文化のつどい」となって今日まで続いている。

これら意欲的な活動は、児童文化のみならず、戦後の混沌とした生活の中に希望と目標を導かせ、また、生活綴方教育では現実を吐き出すことにより、生活の改善と安定を目指した活動にも深く寄与した。今般、各地で盛り上がりをみせる<読み語りサークル>の活動も須藤の実践が継承されていることの現れといえる。これらの功績は高く評価され、昭和26年山形教育功労賞、昭和31年第2回齋藤茂吉文化賞、昭和48年第12回久留島武彦文化賞、昭和55年には第29回河北文化賞が、また日本放送協会から放送開始30周年記念感謝状、昭和44年社会教育施行20周年記念文部大臣感謝状など多数が授与されている。

昭和57年10月永眠。没後、須藤の業績を記念し「やまがた児童文化賞」「北の児童文学賞」が制定され、第17回を迎える平成13年からは「須藤克三記念賞」となる。

南陽市双松公園、山形市蔵王に児童文学碑が建立されている。

財団法人 掬粋巧芸館(ざいだんほうじん・きくすいこうげいかん)《川西町》

昭和7年創立の鑑賞陶磁の美術館である。井上家十代目の井上庄七が骨董好きの祖父(八代目)の影響で、明治末期から主に日本陶磁器を買い集めた。大正中期に至り、中国古陶の発掘が盛んになるにつれ、東京の一部の骨董商が中国より持ち込み、細々ながら売っていた。幸いにも当時の富豪達は茶陶に熱中し、発掘品にはあまり目を向けなかったので割安に求めることができた。

庄七は蒐集が進むにつれ、後代の散逸を恐れ、昭和7年、十一代と相談して財団法人組織とした。設立に当たっては、米200俵上がる田地を館の基本財産として井上家から寄附したが、戦後、国の方針で農地解放のために無財産となった。

現在、主な収蔵品の中国元時代《染付飛鳳唐草文八角瓢形瓶》(国指定重要文化財)をはじめ、中国(漢~清)、朝鮮(新羅~李朝)、日本(鎌倉~近代)まで、重要美術品4点、山形県指定有形文化財15点を含む約600点を常時展示している。

第3回(昭和32年度)

結城哲雄(ゆうき・てつお)

漆工芸作家。大正6年、18歳で上京、蒔絵師 船橋舟眠に師事し、蒔絵の本技を修行する傍ら、四条派の広瀬東畝に日本画を学び、大正10年には時の漆芸の第一人者 植松包美に師事し、古典芸術の指導を受け、描金法を修める。

大正14年、26歳で独立し、以後50年の歳月を漆芸作家としてこの道一筋に進む。昭和6年、帝展に出品、特選となり以後毎回入選、昭和11年に無鑑査となる。

昭和20年、郷里山形に帰り、鋳金分野の諸家や漆芸の中川哲哉とともに山形県綜合工芸協会を結成、会長となり、後進の指導にあたり、井田裕允、玉井信、佐藤善太郎といった漆芸作家を育てあげた。

昭和28年には、日展審査員に就任した。

財団法人 致道博物館(ざいだんほうじん・ちどうはくぶつかん)《鶴岡市》

昭和25年、旧庄内藩主酒井氏が地方文化の向上発展に資することを目的として、土地建物および伝来の文化財などを寄附し、財団法人以文会を設立、開館した。

翌年、博物館法による博物館施設として運営されるようになり、致道博物館と改称し現在に至る。

「致道」の名称は庄内藩校「致道館」に由来したもので、典籍、版木、祭器など多くの藩校資料の保存とともに、藩学の伝統を主とした古典の研究も行っている。

鶴ヶ岡城(現在の鶴岡公園)の三の丸にあたり庄内藩の御用屋敷となっていた場所に位置し、構内には、幕末に建てられた藩主の隠居所である御隠殿の建物の一部や庭園(国指定名勝)が現存しており、また、重要文化財旧西田川郡役所、同旧渋谷家住宅(田麦俣民家)、県文化財旧鶴岡警察署庁舎が移築保存され、これらを利用して庄内地方の考古・歴史・民俗資料を常設展示している。

特に民俗資料の保存には創立当初より力を入れ、国指定重要有形民俗文化財8種5,350点は生活文化の地域的特色や時代的変遷を知るうえで貴重な資料となっている。

また、地域の芸術文化向上のため、美術を中心とした特別企画展や地元作家の展覧会を開催している。

第4回(昭和33年度)

真下慶治(ましも・けいじ)《山形市》

洋画家。

大正3年、最上郡戸沢村津谷に生まれ、旧制新荘中学校を卒業後、文化学院美術部に入学し石井柏亭らに師事する。その後、番衆技塾(二科美術研究所)に入り熊谷守一らに師事し、昭和11年に帰郷。

山形県の母なる川「最上川」をこよなく愛し、村山市大淀及び松山町にアトリエを設けて、「最上川」をテーマに味わい深い数多くの名作を描いた。

受賞歴・役職等

  • 昭和15年 紀元二千六百年奉祝美術展で「雪の最上川」が入選し、イタリア政府買上げ
  • 昭和17年 「雪景」入選、一水会賞受賞
  • 昭和21年 第1回日展で「最上川冬景」が特選、文部省買上げ
    第2回日展で「雪景」が特選
    一水会会員
  • 昭和26年 山形大学教育学部講師
  • 昭和31年 山形市小白川町に転居
  • 昭和33年 第4回齋藤茂吉文化賞を受賞
  • 昭和39年 山形大学助教授
  • 昭和42年 第10回新日展で「最上川霙」が菊花賞
  • 昭和43年 山形大学教育学部教授
  • 昭和47年 山形大学教育学部美術科教授を退官
  • 昭和52年 一水会常任委員
  • 昭和55年 日展審査員(以後、3回任命を受ける)
  • 昭和61年 日展評議員
  • 平成4年 第7回小山敬三美術賞を受賞

黒川能座(くろかわのうざ)《櫛引町》

櫛引町黒川の春日神社の氏子が上座と下座の二つの宮座に分かれ、それが同時に二つの能座を形成している。両座それぞれ、能太夫でもある座長を中心に運営されている。

黒川能は、春日神社の神事能として、氏子たちの手によって500年もの間連綿と守り伝えられている。世阿弥が大成した後の猿楽能の流れを汲むが、いずれの流儀にも属さずに独自の伝承を続け、独特の形と中央では滅びてしまった古い演目や演式を数多く残している。

氏子は約420戸、能役者は囃子方を含めて子供から長老まで約160人、能装束400点、演目数は能540番、狂言50番というように民俗芸能としては大きな規模となっている。

庄内藩主酒井氏の援助を受け発展し、明治維新や第二次世界大戦など存続が危ぶまれる時期もあったが、黒川の人々の深甚なる信仰心と能への愛着心によって、一度も途絶える事なく今日まで守り伝えられている。

昭和51年には国の重要無形民俗文化財に指定され、生活に根差した貴重な民俗芸能として全国から注目を集めている。

第5回(昭和34年度)

高橋 剛(たかはし・ごう)《酒田市》

大正10年酒田市千代田に生まれた。生家は代々神社仏閣の木彫を業とし、東京美術学校彫刻科を卒業後、関野聖雲、北村西望に師事。

バレエダンサーや裸婦像の制作を中心にし、日展、日彫展で活躍。

平成3年6月、故郷の芸術文化振興のために彫刻作品の石膏原型178点を酒田市に寄贈したが、3ヵ月後、亡くなった。

酒田市では、寄贈された原型をもとに、平成4年から数点ずつ鋳造を行ってきたが、これらは酒田市美術館の主要な常設展示作品となっている。

  • 昭和31年 第12回日展「踊り子」特選
  • 昭和32年 第13回日展特選
  • 昭和33年 第1回新日展
  • 昭和34年 齋藤茂吉文化賞受賞
  • 昭和36年 第4回新日展審査員
  • 昭和37年 東京家政大学教授
  • 昭和47年 (社)日展評議員
  • 昭和56年 第13回改組日展内閣総理大臣賞
  • 昭和60年 第17回改組日展「稽古場の踊り子」恩賜賞・日本芸術院賞
  • 昭和62年 東京家政大学名誉教授、(社)日展理事
  • 平成元年 (社)日展参事

清野祐彦(せいの・すけひこ)

大正4年生まれ。従来極めて少なかった癌に関する病態研究に取り組み、生化学の領域、特に酵素化学の分野の研究を行い、肝臓細胞のカタラーゼ活性の低下問題を取り上げ、肝臓、腎臓、脾臓、血液等のカタラーゼ活性が肝臓網内系の機能に強く左右されることを研究し発表するなど、病態生化学領域で多くの自家及び指導業績をのこした。

熱海 明(あたみ・あきら)

大正9年生まれ。昭和32年、未知の発癌物質ウィツテペプトン(蛋白質)注射により、7匹の白鼠中5匹の皮下に癌を実験的に作り出し、うち3例を腹水型の腫瘍である「山形肉腫」と名づけ、種々の実験研究に使用した。そのほか、細胞分裂や染色体、転移、免疫、細胞診についての研究を行い、病理学領域の多くの自家及び指導業績をのこした。

受賞の背景

昭和30年代前半、癌は医学の究明すべき最後の課題とされ、ようやく国民的な問題として取り上げられるに至っており、当時、癌による死亡率が日本一であった県内でも、昭和34年より特定の保健所で早期診断が実施される運びとなっていた。清野、熱海両氏の研究業績が、単に学会に寄与するだけでなく、県内医師一般の研究心を高め、医療の向上や厚生文化の振興に寄与するところが多大であることから、協同実験者として受賞に至ったものである。

第6回(昭和35年度)

横倉嘉山(よこくら・かざん)

  • 昭和26年 日展初入選。以後数多く入選。
  • 昭和34年 日展特選及び北斗賞受賞。
  • 昭和41年 日展審査員に推挙される。
  • 昭和47年 山形市よりの依頼で、皇太子殿下御夫妻に献上の茶の湯釜「肩衝紅花釜」を製作。

また、外務省主催の海外芸術祭にも選抜される。

所属

  • 日本新工芸評議員
  • 日展審査員等歴任

白甕社(はくおうしゃ)《鶴岡市》

大正13年、旧制鶴岡中学在学生を中心に、美術教諭の新穂源治郎氏が会長となり、当時の庄内地方では珍しい洋画運動による地方文化の発展を目指して設立された美術団体。

当初は「白虹社」と称したが、翌大正14年、地主悌助氏が会長に就任後、名を「白甕社」に改める。また、昭和13年から15年には、3年間にわたり日本画壇を代表する作家 北川民治、山口薫、三岸節子、安井曾太郎、鈴木信太郎、藤田嗣治ほか50数名の作品を特陳し、昭和15年には北川民治絵画講習会を開催した。

戦中、戦後の困難な時期にも、展覧会は一度たりとも休むことなく開かれ、昭和23年に、同好会形式を改めて、広く一般にも開放する公募団体として新たに発足した。

会員による春季展と、一般からの公募を含む秋季展の年2回展形式は現在まで続いており、息の長い安定した活動で地域文化の中核的存在となっている。

昭和30年には日本画団体「丹青会」が「白甕社」に加わり、同会は洋画、日本画、それに昭和35年に設置された彫刻の3部門を擁する美術団体となった。

作品の出品や展覧会への参観を通じて、地域住民の美意識の向上や地域の美術振興と普及に大きな影響を与え、単に庄内地方にとどまらず、活躍顕著な美術団体として、県全体の美術活動の発展と、水準の向上に貢献している。また、助け合い色紙展、写生会、美術教室など地域奉仕や教育的な活動も実践されている。

受賞歴

  • 昭和29年 鶴岡市制30周年 文化功労賞
  • 昭和56年 サントリー地域文化賞優秀賞
  • 平成6年 庄内文化賞

第7回(昭和36年度)

甲埼 環(こうさき・たまき)《酒田市》

郷土史家。

明治15年飽海郡鵜渡川原村(現、酒田市内)に生れ、幼少の頃より歴史書を好む。長じて酒田米穀取引所に勤め、終戦後は20年余り本間美術館に学芸員として勤務した。

国漢文に通じ、多年にわたり地方史及び古文書の研究につとめ、地方史の史料解読、書写、紹介、目録調製などに大きな貢献をした。特に古文書と古美術に明るく、国指定有形文化財に指定された『伊勢物語』の塗籠本(ぬりごめぼん)の発見者として著名。

昭和39年より酒田古文書同好会を指導。また、酒田市史編纂委員として酒田市史の完成にも功績がある。

主な著書

「志村伊豆守」「亀ヶ崎史話」「神道審問」

略歴

  • 明治28年4月 鵜渡河原村立亀ヶ崎尋常小学校卒業
    11月 酒田米穀取引所勤務
  • 昭和2年4月 財団法人光丘文庫委員(23年3月まで)
  • 昭和22年5月 本間美術館設立、嘱託勤務(43年3月まで)
  • 昭和28年4月 酒田市史編纂委員
  • 昭和29年4月 山形県貴重文化財推薦委員(37年3月まで)
  • 昭和31年2月 博物館法施行規則により学芸員となる
  • 昭和39年11月 酒田市文化財調査委員
  • 昭和44年5月 財団法人本間美術館評議員

受賞歴

  • 昭和36年11月 齋藤茂吉文化賞受賞
  • 昭和38年11月 地方文献研究により酒田市政功労賞表彰

博物館 蟹仙洞(はくぶつかん・かいせんどう)《上山市》

昭和26年9月開館。当地で製糸(生糸)業を経営していた美術愛好家長谷川謙三(明治19年生)が半生をかけて収集した美術品などを保存公開するために設立した美術博物館。

展示の中心は日本刀と刀装具や甲冑、明・清時代の中国漆工芸品で、特に彫漆を中心とした中国漆が充実しており、そのほかに蒔絵、硯箱、仏台など様々なものが収蔵・展示されている。

また、創立者の住宅であった大正時代の邸宅も公開されてその日本庭園とともに当館の特徴となっている。毎年4月前後には収集品の人形と長谷川家に関わる雛人形が公開されている。

第8回(昭和37年度)

山蔦正躬(やまつた・まさみ)《余目町》

明治44年東田川郡新堀村大字局に生まれ、小学5年のとき、余目町に移住。昭和3年、酒田中学卒業後、昭和9年、日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)を卒業し、東田川郡余目町茶屋町に開業。

学生時代より小説を書き、長編小説に「清河八郎」、「荒沢部落」、「何かが起こる」、「素顔の人生」がある。

特に「荒沢部落」は独自の題材を農民文学として完成させたものと評価されている。

また、コント集に「掲示板」、「話したがる虫」、「だいこん役者」等、随筆集に「田舎歯科医のユーモア頓服薬」、歌集に「新雪」「群動」「草径」「描かれざる花」「逞しき葉脈」「身辺雑唱」「風沙」がある。

昭和51年、余目町八幡公園に文学碑が建設される。

受賞歴

  • 昭和37年 齋藤茂吉文化賞
  • 昭和43年 第11回高山樗牛賞
  • 昭和46年 第1回余目町芸術文化振興協会賞
  • 昭和49年 らくがき倶楽部10周年記念特別賞
  • 昭和51年 第1回えにしだ賞

黒森歌舞伎(くろもりかぶき)《酒田市》

黒森歌舞伎は酒田市黒森地区に伝承されている地芝居である。その起源は少なくとも200年以上前まで遡るといわれ、2月15日、17日の日枝神社の祭礼の時、境内の常設舞台で奉納されている。伝承演目は、義太夫狂言を主として50種ほどあるが、演出や芸態面で中央の歌舞伎とは異なった面もみられ、地元独自に長く伝承されたことを窺わせる。その年の上演演目は前年3月の「太夫振舞」と呼ばれるくじ引きの神事により決定されるなど、1年を通じて様々な儀式があり、歌舞伎が農村で祭礼と結びついて定着した過程をよく示している。

安斎 徹(あんざい・とおる)

明治22年福島県に生れる。大正元年、戸隠、白馬への初登山から自然に憧れ、大正5年秋田鉱専卒業。台湾生蕃界、シベリアの大荒野に青春を捧げ、大正10年旧制山形高等学校創設とともに地質鉱物学教室教授に就任。爾来、東北の自然研究に専念。のち、山形大学教授。

蔵王火山の研究者としてすぐれた研究業績を残すとともに、こよなく蔵王を愛し、蔵王山の「樹氷」を命名し、世に紹介したことで知られる。また、朝日連峰や吾妻山、鳥海山、飛島等の地質学的研究を行い、史跡、名勝、天然記念物の指定、国定公園の指定にあたっての調査報告をまとめた。

「山形県立自然公園審議会会長」、「山形県自然環境保全審議委員」、「月山の自然を守る会会長」等を務める。

主要著書

「東北の山々」(昭和8年)、「樹氷」(昭和17年)、「神秘の火口蔵王のお釜」(昭和35年)、「熊・樹氷・自然」(昭和49年)など

第9回(昭和38年度)

真壁 仁(まかべ・じん)《山形市》

農民詩人、思想家。

明治40年山形市宮町に農家真壁幸太郎の長男として生まれる。本名仁兵衛。高等小学校卒業後農業に従事しながら独学、あわせて詩を書く。尾崎喜八、高村光太郎、高田博厚らと出会い、芸術へ関心を深める一方、農民の解放をめざし農民組合を結成。以来、生涯にわたり社会的な行動に身をおく。このため戦前には検挙され、保護観察処分を受けた。

戦後は思想的に上原専禄の影響を受け、芸術の追求と人間の解放をひとつの旗の下に求めつつ、百姓こそ文化と芸術の母であり、またいま住んでいる場が世界の中心だ、という哲理と思想をかたくなに貫いた。終生山形に土着し、「黒川能」の発掘と紹介に半生を燃やした。

また青森の亀ヶ岡土器文化、温海町の焼き畑による赤蕪栽培や科布織、岩手県釜石の製鉄の歴史等々に新しい光を当てることで、東北は不毛の地域ではなく、列島文化の中心でさえあったとして東北復権を説いた。

その志を継ぐ多くの農村青年を育てたことも特筆される。

代表的な詩集に「青猪の歌」「日本の湿った風土について」がある。毎日出版文化賞を受賞した「みちのく山河行」は、みちのくに住む人々を鼓舞する書である。また晩年にまとめられた「野の教育論」3巻、「野の文化論」5巻によって、詩人であるとともに野の思想家とよばれるようになる。

昭和58年 河北文化賞受賞

結城健三(ゆうき・けんぞう)《山形市》

歌人。

明治33年山形県宮内町生まれ。旧制中学校卒業。少年雑誌投稿家として歌作を始め、中学卒後、新聞社や県庁に勤めながら、作家活動をつづける。「詩歌」、「国民文学」、「覇王樹」を経て、昭和22年3月金雀枝短歌会を創り短歌雑誌「えにしだ」を創刊。昭和57年には、初代山形県短歌クラブの発足とともに会長を務める。

齋藤茂吉記念館副理事長、のちに館長を務める。

歌集に「野薊」「寒峡」「雪谿」「月夜雲」、随筆集に「四季慕情」、評論に「子規の文学精神」、「子規への径」、「山形歌壇誌」、「結城健三の小歌論」などがある。

写実に根ざした繊細な抒情あふれる作風で知られる。

現代歌人協会(特別会員)、日本歌人クラブ(名誉会員)

主な受賞歴等

  • 昭和52年11月 勲五等瑞宝章
  • 昭和59年 山形市政功労者表彰
  • 平成5年 山形市名誉市民

山形県美術連盟(やまがたけんびじゅつれんめい)《山形市》

昭和21年1月、敗戦後の混乱のなか、県内の美術界が大同団結し、日本画、洋画、彫刻等の各分野から県内在住作家のほとんどが参加して、山形県美術連盟の前身である山形県美術協会が結成された。

昭和21年6月、山形県美術協会主催により、県会議事堂を会場として、会員展方式による第1回県総合美術展覧会が開催され、続いて11月には公募展方式で第2回県総合美術展覧会が開催された。

これを皮切りに、以後、毎年1回、山形県美術協会は公募方式による総合美術展を主催し現在に至っており、県内美術人口の底辺拡大と質的水準の向上に大きな役割を果たしている。

なお、山形県美術協会は、昭和31年2月、発展的に解消し、山形県美術連盟に改組され、現在に至っている。

白畑孝太郎(しらはた・こうたろう)《南村山郡宮生村》

大正3年生まれ。昭和10年7月から酒田警察署に勤務。

早くから昆虫の研究に取り組み、「昆虫のおまわりさん」として知られる。

県内のギフチョウ属について新発見を行う。

功績

昭和34年7月、本県の自然環境の総合的な学術調査を実施することを目的に発足した山形県総合学術調査会調査員に、大学・博物館等に所属する多くの研究者・博士号取得者に混じり、ただ一人、県内在野から参加し、動物班昆虫類担当の調査員として朝日連峰や吾妻連峰等における昆虫類分布についての詳細な調査研究を行うなど、永年、山形県下の昆虫相の報告に努めてきた。

その成果は、以下の各報告書に詳しい。

  • 朝日連峰総合学術調査報告(昭和39年8月)
  • 吾妻連峰総合学術調査報告(昭和41年11月)
  • 飯豊連峰総合学術調査報告(昭和45年3月)
  • 鳥海山・飛島総合学術調査報告(昭和47年10月)

役職

  • 日本動物学会会員
  • 日本昆虫学会会員
  • 山形県総合学術調査員
  • 日本鱗翅学会評議員
  • 山形昆虫同好会名誉会長

受賞歴

昭和34年度山形新聞3P賞のうち進歩賞受賞

第10回(昭和39年度)

須貝庄三(庄蔵)(すがい・しょうぞう)(しょうぞう)《山形市》

大正4年4月、鋳造業界に入り、卓越した技能と幾多の考案改善によって、生産能率の増進に貢献した。

鋳造技術の真土型鋳造法、蝋(ろう)型鋳造法のうち、精密巧緻なろう型技法は、蜜ろうの低融性を利したろうの厚みで金属の厚みを規定する割込型の鋳造法で、奈良朝時代から伝えられた。ただし、ろう型鋳造師は少なく、全国に僅かな数を残すのみである。

主な作品

新海竹太郎の原型、その他日本一流大家の原型である銅像、胸像、床置等の美術品を数多く鋳造している。

東京靖国神社レリーフ、日光開山勝道上人像と板垣退助先生像

石を擲(なげう)つ男、土井晩翠、荒城の月レリーフ、その他

略歴

  • 大正4年 鋳造の道に入る
  • 昭和34年 日本花器茶器美術工芸展読売新聞社賞受賞
  • 昭和39年 齋藤茂吉文化賞受賞
  • 昭和42年 科学技術庁長官賞受賞
  • 昭和43年 山形県知事技能賞受賞
  • 昭和44年 東京銀座松屋において蝋型鋳造個展開催
  • 昭和46年 勲六等単光旭日章
  • 日展出品 伝統工芸展出品
  • 山形県美術連盟名誉会員

結城嘉美(ゆうき・よしみ)《村山市》

明治37年生まれ。県立村山農学校卒業後小学校教員となり、大正12年中等学校教員植物科検定試験に合格して大正14年から県立山形中学校教諭として多年博物科を担当。後、県立楯岡高等学校長・山形市教育長・山形県立博物館長を歴任。昭和9年「山形県植物誌」を著わし、その後山形県のフロラの探求をつづけ、フロラ山形を主宰して機関紙フロラ山形を刊行してきた。昭和47年発刊の「山形県の植物誌」は、熾烈な郷土の自然に対する愛惜と自然史研究の厳しさから生まれたもので、山形県の植物を知り、山形県の自然を理解するには、またとない貴重な文献である。昭和49年には、古稀を記念して「やまがた植物記」を刊行した。

役職

  • 山形県文化財専門委員
  • 山形県自然公園審議会委員
  • 山形県総合学術調査員
  • 山形県自然環境保全審議会委員
  • 山形県森林審議会委員

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