更新日:2024年4月15日
ここから本文です。
建設から100年以上が経過したかんがい施設で、農業のみならず地域の発展への貢献度が高い施設を登録する「世界かんがい施設遺産」に、山形県内の施設では初めて、庄内町の最上川土地改良区が申請した「北楯大堰」が登録されました!
世界かんがい施設遺産は、建設から100年以上が経過したかんがい施設で、農業のみならず地域の発展への貢献度が高く、適切に維持管理されている施設を国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録する制度です。
現在、アジア・オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの77カ国・地域が加盟しており、平成29年度まで60施設(10ヵ国)、うち日本国内では31施設が登録されています。
~詳しくはこちらをご覧ください~
農林水産省「世界かんがい施設遺産」ホームページ(外部サイトへリンク)
北楯大堰は、1612年に狩川城主の北館大学助利長によって開削された施設で、庄内町の最上川水系立谷沢川から取水する頭首工と農業用水路の総称です。二度の県営用水改良事業(S17~24、S28~46)と国営最上川下流農業水利事業(H5~13)により施設改修を経て、現在もなお、庄内平野の水田農業を支えています。
北楯大堰がかんがいする地域は、1600年頃まで扇状地の平坦な地形でありながら隣接する河川より5m程度高い位置にあったため、水利用の悪い不毛の土地でした。この未墾地を山形城主最上義光家臣で、狩川城主の北館大学助利長(きただてだいがくのすけとしなが)は、困窮する領民を救うために10年に渡る水田開発調査を行い、山を隔てた地域の上流に位置する立谷沢川から取水し、山際を迂回させて導水する農業用水路を建設する計画を立てました。
1612年に着工した工事は、崖に隣接する河川を埋め立てたり、山裾での掘削では地すべりが発生したりする等困難を極めました。しかし、当時暗夜に提灯の明かりをかかげて高低差を測量する高精度の測量技術や正確で綿密な設計、そして1日約7400人の作業員を動員するなどして、わずか4カ月の短期間で約10kmの水路を完成させました。本水路を基にその後も水路の建設を進めた結果、約5000haが開田し、57年間で46の村落が新たに開村されました。この広大な受益地内に計画的に用水を供給する役職を設置することにより、地域の米収穫量は約7倍に増量し、稲作農家の安定した収入を確保するだけでなく、農業を中心とした経済発展と農村形成に大きく貢献しました。
この計画的な用水供給の管理は、当時の行政機関「郡奉行」が所管し地域の配水秩序を遵守、確保していましたが、1885年からは農家が負担する管理組織が設立され、現在は土地改良区として地域住民と協同で適切な維持管理が行われています。
今も、豊富な用水量を有する北楯大堰は、潤いの空間を地域に提供し美田と調和した憩いの場として親しまれており、町の小学校で歴史などを学ぶための副読本に掲載されるなど、歴史的資産として高く認識されています。
昭和後期の北楯頭首工 | 現在の北楯頭首工 |
改修前の北楯大堰 | 整備された北楯大堰 |
北館大学助利長の像(北館神社内) | 二俣分水工(終点) |
承応4年(1655)狩川大堰(北楯大堰)絵図 | 北楯大堰開削後にできた村落 |
お問い合わせ