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更新日:2022年9月13日
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第41代~第45代山形県知事(昭和48年10月~平成5年2月)
大江町
戦後間もない昭和22年に本県県議会議員に初当選、以来、県議会議員、県議会副議長、県副知事、そして5期19年余りにわたる県知事として、およそ半世紀もの間、本県の発展、地方自治の確立に貢献された。
高速交通網等社会資本の整備、人口定着と経済活動の活性化のための産業の振興、県生涯学習センターの整備、東北芸術工科大学の創設等、人材の育成に力を注ぐとともに、平成4年には126万県民の力を結集した第47回国民体育大会「べにばな国体」及び第28回全国身体障害者スポーツ大会「輝きのべにばな大会」の成功に尽力された。
また、北海道東北地方知事会会長、東北自治協議会会長、全国知事会副会長等の全国的要職を歴任された。
日本画家として我が国の芸術文化の振興に大きく貢献、平成9年 勲三等瑞宝章、平成10年 文化功労者、平成16年 文化勲章
米沢市
15歳で画家を志して上京、以来、日本画家として研鑚に励まれ、ライフワークである「ヒマラヤ」連作等、後世に残る多くの傑作を発表するとともに、日本美術院理事等の要職を歴任。また、平成6年には日本芸術院会員となり、平成16年には文化勲章を受章されるなど、日本美術界の第一人者として、我が国芸術文化の振興発展に貢献された。
「ヒマラヤ」連作に代表される、鳥瞰するような視野で描かれた雄大でダイナミックな作風により日本画に新たな表現方法をもたらすなど、独自の感性で、長年にわたり活躍。
また、本県内への多くの作品寄贈等を通して、本県芸術文化の振興にも寄与されている。
小説家、評論家として我が国の芸術文化の振興に大きく貢献、平成18年 文化功労者、平成23年 文化勲章
鶴岡市
大正14年鶴岡市に生まれ、大学を卒業後、教職を経て作家の道に入った。以来、幾多の小説、評論、翻訳、エッセイなどを発表し、芥川賞をはじめとする数多くの文学賞を受賞するとともに、文学賞の選考委員を歴任。平成10年に日本芸術院会員となり、平成23年には文化勲章を受章するなど、日本文学界の第一人者としての長年にわたる活躍を通して、我が国の芸術文化の振興に大きく貢献した。
長編小説では一貫して、思想、国家を真正面から扱い、徐々に文学、言語に移行し、「輝く日の宮」では日本人の心性と美を現代に蘇らせることに成功した。エッセイにおいても「日本文学史早分かり」などの評論により、日本の古典を気軽に楽しむ流儀を広めるなど、現在も意欲的に作家活動を行っている。また、母校への寄付や県内での文化講演活動などを通して、本県芸術文化の振興にも寄与されている。
免疫学の世界的権威として医学、医療の発展に大きく貢献、昭和49年 文化勲章、平成11年 勲一等瑞宝章、平成12年 日本国際賞、平成18年~平成21年 山形県教育委員会委員長
東京都
東京大学医学部医学科を卒業後、国立予防衛生研究所において免疫学の研究に従事された。昭和37年、同じく研究者の妻照子氏と共に渡米され、小児喘息研究所(米国デンバー市)免疫血清室長、ジョンス・ホプキンス大学医学部免疫学部長、ラホイヤアレルギー免疫研究所所長等を歴任された。その間、アレルギーの原因となる「免疫グロブリンE」を発見され、アレルギー現象の発生機序を解明されるなど、医学、医療の発展に大きく寄与され、昭和49年に文化勲章、平成11年には勲一等瑞宝章を受章、平成12年には日本国際賞を受賞された。
また、平成8年、妻照子氏の故郷山形市に転居し、平成18年から平成21年まで山形県教育委員会委員長として、コミュニケーションを核とした教育の振興を図るなど、本県の人材育成にも尽力された。
昭和29年9月、蔵前国技館落成の場所に初土俵を踏み、幕下時代から期待され、19歳で新入幕を果たすと、21歳の若さで大関に昇進、22歳で横綱に上りつめた。同時に横綱に昇進した終生のライバル「大鵬」とは名勝負を繰り広げ、「柏鵬時代」と呼ばれる一時代を築き上げた。一直線の速攻が持ち味の柏戸と、相手に合わせた柔軟な相撲の大鵬とは、相撲内容が対照的で、「剛の柏戸、柔の大鵬」と称され、二人の対決に国民は熱狂した。当時、大鵬は「巨人、大鵬、卵焼き」と子どもの好きなものに並び称されていたのに対し、柏戸は「阪神(大洋)、柏戸、水割り」と通好みの大人が好きなものに並び称された。
現役引退後は、年寄「鏡山」として多くの力士の育成に尽力し、自身が初土俵を踏んだ蔵前国技館最後の本場所(昭和59年9月場所)では、弟子の「多賀竜」が幕内優勝を果たした。
など長編、短編合わせて200以上を執筆
藤沢周平氏は、数多くの時代・歴史小説などを残した。特に、英雄や豪傑が登場するわけでない市井もので庶民の営みを描き、爽やかな余韻を残す読後感で、「癒しの文学」と言われている。また、氏の故郷にあった荘内藩をモデルにしたと言われる、「海坂藩」が舞台となっている作品では、豊かな情景描写で、読む人に「懐かしさ」を与え、家族の情愛、夫婦愛など、哀歓あふれる作品となっている。「海坂藩」が舞台となっている作品には、庄内地方の方言が使われているものがあり、氏の故郷への思いが伝わってくる作品でもある。
冒険中に生死を分けるような危機の場面では、自分の今までの生き様がモロに試される。
極限のピンチを迎えた時、頭に浮かぶのは、生まれ育った故郷満沢(みつざわ)の自然豊かな山河と食べ物(納豆(なっと)かけまま、あんこ餅、漬物等)。厳しい自然に痛めつけられた時、これが自分のバックグラウンドだと気づかされ、生きて帰りたいと発奮させてくれた。
アマゾン住民やエスキモーは、自然に調和し環境に合わせて生きている。人間の生き方の原点だと思う。そして、自分にとって生きるということは、冒険そのもの。
いろんな人と話をし、多くの体験をし、多くの本を読んでぶつかっていくことにより、力を付けていってもらいたい。何をするにしても、自分が見えていないとうまくいかない。
昭和26年、県立米沢西高校(現米沢興譲館高校)に入学、1年からレギュラーとなり、3年連続で東北大会に出場した。3年時は「エースで4番」、県内外に「米西の皆川」と名を馳せたが、東北大会の決勝で惜敗し、甲子園出場は果たせなかった。
高校時代、1年の県予選決勝でボークを自ら認めたフェアプレーの精神、進出した東北大会で右手の小指を骨折しているにもかかわらず完封勝利を達成した闘志、また、2年の東北大会で敗因となるミスをしたチームメイトを真っ先に慰めた優しさは、今も語り継がれている。
本格派投手として、昭和29年、プロ野球「南海ホークス(現 福岡ソフトバンクホークス)」に入団。アンダースロー転向後、独特の落ちるボールを武器に33歳で31勝をマークするなど、南海黄金時代を築いた。現在、日本プロ野球『最後の30勝投手』である。
現役引退後は、阪神、巨人、近鉄で投手コーチを務めた。
金田正一氏、長嶋茂雄氏、王貞治氏らとともに、昭和53年に発足した名球会の設立当初からのメンバーである。
など多数の名作を発表
昭和62年、自身の蔵書の寄贈により川西町に「遅筆堂文庫」を開設。平成22年4月現在の蔵書数は22万冊に及び、平成20年には山形市に「遅筆堂文庫山形館」も開設。
昭和63年からは、「生活者大学校」を開校し、県内外の多くの若者を対象とした農業・経済・教育などの講座を継続して実施。
また、ふるさと川西町小松の地名から名付けられた自身の劇団「こまつ座」の戯曲を、県内でも数多く公演。
平成15年には、「国民文化祭やまがた2003」において、開会式・閉会式の特別プロデューサーを務め、母なる川「最上川」を介して様々な文化が育まれてきたことを踏まえ、水の大切さを考える祭典として、大会を成功に導かれました。
帝京高校・明治大学を経てNTT関東サッカー部で選手として活躍
佐々木監督は、なでしこジャパンの監督就任後、平成20年の北京オリンピックで日本女子サッカー初の世界第4位という結果を残し、一躍日本女子サッカーの名を世界中に知らしめた。また、平成23年のFIFAワールドカップでは、日本サッカー史上初となる世界1位に導き、日本中に勇気と感動を与えた。さらに、平成24年に開催されたロンドンオリンピックにおいても日本サッカー史上初となる銀メダルを見事獲得した。なでしこジャパンの活躍により、佐々木監督の優れた指導力が多方面に評価され、FIFA女子世界年間最優秀監督賞ほか数多くの賞を受賞している。
佐々木監督は、全国各地で講演活動やサッカー指導、東日本大震災の被災地訪問など多忙を極める中でも、毎年数回は故郷の山形県においても出身地である尾花沢市の小中学校訪問、子どもたちへのサッカー指導、講演等を行っており、サッカー競技の普及促進、競技力向上など本県スポーツの振興に大きく貢献されている。
太田渉子氏は、先天性のハンディキャップを抱えながらも幼い頃からひたむきに練習に励み、パラリンピック冬季競技大会に3大会連続で出場し、銀・銅の2つのメダルを獲得するなど、長期にわたって世界の障がい者スポーツの第一線で活躍し、数多くの功績をあげられた。
平成18年 トリノオリンピック 6位
平成22年 バンクーバーオリンピック 銅メダル
平成26年 ソチオリンピック 5位
平成30年 平昌オリンピック 6位
加藤条治氏は、高校時代から努力を重ねながら長期にわたって世界のトップクラスで活躍し、オリンピック冬季競技大会やワールドカップなどにおいて、数多くの輝かしい成績を収められた。
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