更新日:2022年9月13日

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山形県名誉県民・山形県県民栄誉賞

山形県の名誉県民・県民栄誉賞制度について

山形県名誉県民

第1号 板垣 清一郎(いたがき せいいちろう)氏 平成5年6月24日顕彰

主要経歴

第41代~第45代山形県知事(昭和48年10月~平成5年2月)

出身地

大江町

功績の概要

板垣清一郎氏戦後間もない昭和22年に本県県議会議員に初当選、以来、県議会議員、県議会副議長、県副知事、そして5期19年余りにわたる県知事として、およそ半世紀もの間、本県の発展、地方自治の確立に貢献された。

高速交通網等社会資本の整備、人口定着と経済活動の活性化のための産業の振興、県生涯学習センターの整備、東北芸術工科大学の創設等、人材の育成に力を注ぐとともに、平成4年には126万県民の力を結集した第47回国民体育大会「べにばな国体」及び第28回全国身体障害者スポーツ大会「輝きのべにばな大会」の成功に尽力された。

また、北海道東北地方知事会会長、東北自治協議会会長、全国知事会副会長等の全国的要職を歴任された。

第2号 福王寺 法林(ふくおうじ ほうりん)氏 (本名:福王寺 雄一 氏) 平成17年3月12日顕彰

主要経歴

日本画家として我が国の芸術文化の振興に大きく貢献、平成9年 勲三等瑞宝章、平成10年 文化功労者、平成16年 文化勲章

出身地

米沢市

功績の概要

福王寺法林氏15歳で画家を志して上京、以来、日本画家として研鑚に励まれ、ライフワークである「ヒマラヤ」連作等、後世に残る多くの傑作を発表するとともに、日本美術院理事等の要職を歴任。また、平成6年には日本芸術院会員となり、平成16年には文化勲章を受章されるなど、日本美術界の第一人者として、我が国芸術文化の振興発展に貢献された。

「ヒマラヤ」連作に代表される、鳥瞰するような視野で描かれた雄大でダイナミックな作風により日本画に新たな表現方法をもたらすなど、独自の感性で、長年にわたり活躍。

また、本県内への多くの作品寄贈等を通して、本県芸術文化の振興にも寄与されている。

第3号 丸谷 才一(まるや さいいち)氏 (本名:根村 才一 氏)平成24年7月17日顕彰

主要経歴

小説家、評論家として我が国の芸術文化の振興に大きく貢献、平成18年 文化功労者、平成23年 文化勲章

出身地

鶴岡市

功績の概要

丸山才一氏大正14年鶴岡市に生まれ、大学を卒業後、教職を経て作家の道に入った。以来、幾多の小説、評論、翻訳、エッセイなどを発表し、芥川賞をはじめとする数多くの文学賞を受賞するとともに、文学賞の選考委員を歴任。平成10年に日本芸術院会員となり、平成23年には文化勲章を受章するなど、日本文学界の第一人者としての長年にわたる活躍を通して、我が国の芸術文化の振興に大きく貢献した。
長編小説では一貫して、思想、国家を真正面から扱い、徐々に文学、言語に移行し、「輝く日の宮」では日本人の心性と美を現代に蘇らせることに成功した。エッセイにおいても「日本文学史早分かり」などの評論により、日本の古典を気軽に楽しむ流儀を広めるなど、現在も意欲的に作家活動を行っている。また、母校への寄付や県内での文化講演活動などを通して、本県芸術文化の振興にも寄与されている。

第4号 石坂 公成(いしざか きみしげ)氏 平成30年10月12日顕彰

主要経歴

免疫学の世界的権威として医学、医療の発展に大きく貢献、昭和49年 文化勲章、平成11年 勲一等瑞宝章、平成12年 日本国際賞、平成18年~平成21年 山形県教育委員会委員長

出身地

東京都

功績の概要

石坂公成氏東京大学医学部医学科を卒業後、国立予防衛生研究所において免疫学の研究に従事された。昭和37年、同じく研究者の妻照子氏と共に渡米され、小児喘息研究所(米国デンバー市)免疫血清室長、ジョンス・ホプキンス大学医学部免疫学部長、ラホイヤアレルギー免疫研究所所長等を歴任された。その間、アレルギーの原因となる「免疫グロブリンE」を発見され、アレルギー現象の発生機序を解明されるなど、医学、医療の発展に大きく寄与され、昭和49年に文化勲章、平成11年には勲一等瑞宝章を受章、平成12年には日本国際賞を受賞された。

また、平成8年、妻照子氏の故郷山形市に転居し、平成18年から平成21年まで山形県教育委員会委員長として、コミュニケーションを核とした教育の振興を図るなど、本県の人材育成にも尽力された。

山形県県民栄誉賞

第1号 第47代横綱 柏戸 剛(かしわど つよし)氏 (本名:富樫 剛 氏)平成9年2月4日贈呈

略歴

  • 柏戸剛氏昭和13年11月 旧東田川郡山添村(現鶴岡市)で生まれる
  • 昭和29年9月 (15歳) 伊勢ノ海部屋入門、四股名「富樫」で初土俵を踏む
  • 昭和33年9月 (19歳) 新入幕を果たす
  • 昭和34年3月 (20歳) 伊勢ノ海部屋の伝統の四股名「柏戸」を襲名する
  • 昭和35年7月 (21歳) 大関昇進
  • 昭和36年1月 (22歳) 幕内初優勝(13勝2敗)
  • 昭和36年9月 (22歳) 横綱昇進
  • 昭和44年7月 (30歳) 現役引退
  • 昭和45年9月 (31歳) 鏡山部屋を創設
  • 平成8年12月8日 逝去(58歳)

主な成績

  • 幕内通算成績 599勝240敗140休 幕内在位66場所
  • 幕内優勝5回 殊勲賞2回 敢闘賞2回 技能賞4回
  • 身長 188cm 体重 146kg 得意技 立ち会いからの一気の寄り

柏鵬時代

昭和29年9月、蔵前国技館落成の場所に初土俵を踏み、幕下時代から期待され、19歳で新入幕を果たすと、21歳の若さで大関に昇進、22歳で横綱に上りつめた。同時に横綱に昇進した終生のライバル「大鵬」とは名勝負を繰り広げ、「柏鵬時代」と呼ばれる一時代を築き上げた。一直線の速攻が持ち味の柏戸と、相手に合わせた柔軟な相撲の大鵬とは、相撲内容が対照的で、「剛の柏戸、柔の大鵬」と称され、二人の対決に国民は熱狂した。当時、大鵬は「巨人、大鵬、卵焼き」と子どもの好きなものに並び称されていたのに対し、柏戸は「阪神(大洋)、柏戸、水割り」と通好みの大人が好きなものに並び称された。

現役引退後は、年寄「鏡山」として多くの力士の育成に尽力し、自身が初土俵を踏んだ蔵前国技館最後の本場所(昭和59年9月場所)では、弟子の「多賀竜」が幕内優勝を果たした。

第2号 作家 藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい)氏 (本名:小菅 留治 氏) 平成9年3月8日贈呈

略歴

  • 藤沢周平氏昭和2年12月 旧東田川郡黄金村(現鶴岡市)で生まれる
  • 昭和24年4月 (21歳) 山形師範学校を卒業し、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校で教鞭を取る
  • 昭和26年3月 (23歳) 病気のため教師を休職し、療養
  • 昭和32年10月 (29歳) 業界新聞社に勤務
  • 昭和37年 (34歳) 時代小説雑誌に藤沢周平の名で作品を執筆
  • 昭和48年7月 (45歳) 「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞。以降、本格的な作家生活に入る
  • 昭和61年4月 (58歳) 「白き瓶」で第20回吉川英治文学賞を受賞
  • 平成9年1月26日 逝去(69歳)

主な著作

  • 時代小説
    「獄医立花登手控え」、「喜多川歌麿女絵草子」、「本所しぐれ町物語」、「日暮れ竹河岸」、「海鳴り」等
    ~海坂藩(うなさかはん)を舞台にした小説~
    「蝉しぐれ」、 「秘太刀馬の骨」、「盲目剣谺返し」、「たそがれ清兵衛」、「三屋清左衛門残日録」等
  • 歴史小説
    「義民が駆ける」、「密謀」、「市塵」、「回天の門」、「一茶」、「漆の実のみのる国」、「雲奔る」等

など長編、短編合わせて200以上を執筆

癒しの文学と海坂藩

藤沢周平氏は、数多くの時代・歴史小説などを残した。特に、英雄や豪傑が登場するわけでない市井もので庶民の営みを描き、爽やかな余韻を残す読後感で、「癒しの文学」と言われている。また、氏の故郷にあった荘内藩をモデルにしたと言われる、「海坂藩」が舞台となっている作品では、豊かな情景描写で、読む人に「懐かしさ」を与え、家族の情愛、夫婦愛など、哀歓あふれる作品となっている。「海坂藩」が舞台となっている作品には、庄内地方の方言が使われているものがあり、氏の故郷への思いが伝わってくる作品でもある。

第3号 冒険家 大場 満郎(おおば みつろう)氏 平成9年8月11日贈呈

略歴

  • 大場満郎氏昭和28年1月 最上郡最上町で生まれる
  • 昭和58年 (30歳) アマゾン川6,000km単独いかだ下り
  • 昭和60年 (32歳) グリーンランド西海岸1,400km単独徒歩行
  • 昭和61年 (33歳) 世界初の北磁極(ほくじきょく)往復900km単独徒歩行に成功
  • 平成6年~ (41歳~)北極海単独徒歩横断に3度挑戦するが失敗(この間、遠征中の凍傷のため足の指を全て失う)
  • 平成9年 (44歳) 4度目の挑戦で北極海単独徒歩横断に成功
  • 平成10~11年 (45~46歳) 南極大陸単独徒歩横断
  • 平成16年 (51歳) 地球縦周りの旅 第一弾「グリーンランド横断成功」
  • 平成17年 (52歳) 地球縦周りの旅 第二弾「カナダ北極圏の旅」実施 現在 冒険学校にて、次の冒険に向け準備中

冒険中の苦難を克服する原動力は?

冒険中に生死を分けるような危機の場面では、自分の今までの生き様がモロに試される。

極限のピンチを迎えた時、頭に浮かぶのは、生まれ育った故郷満沢(みつざわ)の自然豊かな山河と食べ物(納豆(なっと)かけまま、あんこ餅、漬物等)。厳しい自然に痛めつけられた時、これが自分のバックグラウンドだと気づかされ、生きて帰りたいと発奮させてくれた。

生きるということは?

アマゾン住民やエスキモーは、自然に調和し環境に合わせて生きている。人間の生き方の原点だと思う。そして、自分にとって生きるということは、冒険そのもの。

山形の若い人や子供たちへのメッセージ

いろんな人と話をし、多くの体験をし、多くの本を読んでぶつかっていくことにより、力を付けていってもらいたい。何をするにしても、自分が見えていないとうまくいかない。

第4号 元 プロ野球南海ホークス投手 皆川 睦雄(みながわ むつお)氏 平成18年3月15日贈呈

略歴

  • 皆川睦夫氏昭和10年7月 南置賜郡山上村大字関根(現米沢市)に生まれる
  • 昭和29年4月 (18歳) 南海ホークス入団
  • 昭和37年 最優秀勝率投手賞 19勝4敗 勝率 8割2分6厘
  • 昭和41年 最優秀勝率投手賞 18勝7敗 勝率 7割2分
  • 昭和43年10月6日 (33歳) 通算200勝(同年、最多勝利投手賞 31勝10敗、最優秀防御率投手賞 防御率1.61)
  • 昭和46年 (36歳) 現役引退(通算成績 221勝139敗 奪三振1,638 防御率2.42)
  • 昭和53年 名球会入り
  • 平成17年2月6日 逝去(69歳)

高校時代

昭和26年、県立米沢西高校(現米沢興譲館高校)に入学、1年からレギュラーとなり、3年連続で東北大会に出場した。3年時は「エースで4番」、県内外に「米西の皆川」と名を馳せたが、東北大会の決勝で惜敗し、甲子園出場は果たせなかった。

高校時代、1年の県予選決勝でボークを自ら認めたフェアプレーの精神、進出した東北大会で右手の小指を骨折しているにもかかわらず完封勝利を達成した闘志、また、2年の東北大会で敗因となるミスをしたチームメイトを真っ先に慰めた優しさは、今も語り継がれている。

プロでの活躍

本格派投手として、昭和29年、プロ野球「南海ホークス(現 福岡ソフトバンクホークス)」に入団。アンダースロー転向後、独特の落ちるボールを武器に33歳で31勝をマークするなど、南海黄金時代を築いた。現在、日本プロ野球『最後の30勝投手』である。

現役引退後は、阪神、巨人、近鉄で投手コーチを務めた。

金田正一氏、長嶋茂雄氏、王貞治氏らとともに、昭和53年に発足した名球会の設立当初からのメンバーである。

第5号 劇作家・作家 井上 ひさし(いのうえ ひさし)氏 (本名:井上 廈 氏)平成22年8月15日贈呈

略歴

  • 井上ひさし氏昭和9年11月 東置賜郡川西町に生まれる。
  • 昭和31年、大学在学中から劇場の台本を書きはじめる。
  • 以来、「ひょっこりひょうたん島」、「手鎖心中」、「吉里吉里人」、「シャンハイムーン」、「太鼓たたいて笛ふいて」など数多くの戯曲や小説の名作を発表。
  • その間、直木賞、吉川英治文学賞、菊池寛賞をはじめ幾多の賞を受賞するなど、日本を代表する劇作家・作家として長年にわたり活躍し、多くの人々に愛されました。
  • 平成16年 文化功労者
  • 平成21年 日本芸術院会員
  • 平成22年4月9日 逝去(75歳)

主な作品

  • 小説ほか
    「ブンとフン」、「手鎖心中」、「ドン松五郎の生活」、「吉里吉里人」、「ひょっこりひょうたん島」、
    「東京セブンローズ」、「ボローニャ紀行」等
  • 戯曲
    「しみじみ日本・乃木大将」、「小林一茶」、「シャンハイムーン」、「太鼓たたいて笛ふいて」、「父と暮らせば」等

など多数の名作を発表

県内での活動

昭和62年、自身の蔵書の寄贈により川西町に「遅筆堂文庫」を開設。平成22年4月現在の蔵書数は22万冊に及び、平成20年には山形市に「遅筆堂文庫山形館」も開設。

昭和63年からは、「生活者大学校」を開校し、県内外の多くの若者を対象とした農業・経済・教育などの講座を継続して実施。

また、ふるさと川西町小松の地名から名付けられた自身の劇団「こまつ座」の戯曲を、県内でも数多く公演。

平成15年には、「国民文化祭やまがた2003」において、開会式・閉会式の特別プロデューサーを務め、母なる川「最上川」を介して様々な文化が育まれてきたことを踏まえ、水の大切さを考える祭典として、大会を成功に導かれました。

 

第6号 プロサッカー監督 佐々木 則夫(ささき のりお)氏 平成24年9月21日贈呈

略歴

  • 佐々木則夫氏昭和33年5月24日 尾花沢市に生まれる

帝京高校・明治大学を経てNTT関東サッカー部で選手として活躍

  • 平成2年 現役引退
    NTT関東サッカー部・大宮アルディージャでコーチ、監督を歴任
  • 平成18年 日本サッカー協会 なでしこジャパン(日本女子代表)コーチ就任
  • 平成19年 日本サッカー協会 なでしこジャパン(日本女子代表)監督就任

戦績・表彰歴

  • 平成20年 東アジアサッカー選手権に優勝し、日本初のタイトルをもたらす
    北京オリンピック ベスト4
  • 平成22年 東アジア女子サッカー選手権で2度目の優勝
  • 平成23年 FIFA女子ワールドカップドイツ2011で日本サッカー初の世界一へ導く
    国民栄誉賞、AFC最優秀監督賞、ゆうもあ大賞、山形県スポーツ大賞、尾花沢市市民栄誉賞
  • 平成24年 FIFAバロンドール2011で女子年間最優秀監督ロンドンオリンピック準優勝(日本サッカー史上初)

なでしこ率いる佐々木監督の活躍

佐々木監督は、なでしこジャパンの監督就任後、平成20年の北京オリンピックで日本女子サッカー初の世界第4位という結果を残し、一躍日本女子サッカーの名を世界中に知らしめた。また、平成23年のFIFAワールドカップでは、日本サッカー史上初となる世界1位に導き、日本中に勇気と感動を与えた。さらに、平成24年に開催されたロンドンオリンピックにおいても日本サッカー史上初となる銀メダルを見事獲得した。なでしこジャパンの活躍により、佐々木監督の優れた指導力が多方面に評価され、FIFA女子世界年間最優秀監督賞ほか数多くの賞を受賞している。

ふるさと山形県への思い

佐々木監督は、全国各地で講演活動やサッカー指導、東日本大震災の被災地訪問など多忙を極める中でも、毎年数回は故郷の山形県においても出身地である尾花沢市の小中学校訪問、子どもたちへのサッカー指導、講演等を行っており、サッカー競技の普及促進、競技力向上など本県スポーツの振興に大きく貢献されている。

第7号 ノルディックスキー選手 太田 渉子(おおた しょうこ) 氏 平成26年9月5日贈呈

略歴

  • 太田渉子氏平成元年7月 尾花沢市に生まれる(先天性左手全指欠損)。
  • 平成10年 尾花沢クロスカントリースキースポーツ少年団に入団。
  • 平成15年 日本障害者スキー連盟の強化指定選手になる。
  • 平成16年 国際パラリンピック委員会主催(以下同じ)のワールドカップに初出場。
  • 平成18年 尾花沢市市民栄誉賞を受賞。山形県立北村山高等学校を休学、フィンランドへ留学。
  • 平成22年 北村山高等学校に復学、卒業。株式会社日立ソリューションズに入社。
  • 平成26年 ソチ2014パラリンピック冬季競技大会開会式で日本選手団の旗手を務める。

主な戦績

  • 平成17年 世界選手権アメリカ大会女子リレーで銅メダルを獲得。ワールドカップイタリア大会バイアスロン12.5kmで銅メダルを獲得。
  • 平成18年 トリノ2006パラリンピック冬季競技大会バイアスロン12.5kmで銅メダルを獲得。
  • 平成19年 ワールドカップフィンランド大会バイアスロン12.5kmで初優勝。ワールドカップのバイアスロンでシーズン総合優勝。
  • 平成20年 ワールドカップフィンランド大会クロスカントリースキー・クラシカルスプリント(1km)で優勝。
    ワールドカップノルウェー大会クロスカントリースキー・クラシカル5km、クラシカルスプリント(1km)でともに優勝。
    ワールドカップのクロスカントリーでシーズン総合2位。
  • 平成22年 バンクーバー2010パラリンピック冬季競技大会クロスカントリースキー・クラシカルスプリント(1km)で銀メダルを獲得。
  • 平成26年 ソチ2014パラリンピック冬季競技大会バイアスロン6kmで6位入賞。

幼い頃からの努力とその成果

太田渉子氏は、先天性のハンディキャップを抱えながらも幼い頃からひたむきに練習に励み、パラリンピック冬季競技大会に3大会連続で出場し、銀・銅の2つのメダルを獲得するなど、長期にわたって世界の障がい者スポーツの第一線で活躍し、数多くの功績をあげられた。

第8号 スピードスケート選手 加藤 条治(かとう じょうじ)氏 令和4年9月5日贈呈

略歴

  • 昭和60年2月 山形市に生まれる。
  • 平成12年 山形県立山形中央高等学校に進学。高校時代は、インターハイ男子500メートルで三連覇を達成。また、日本人選手として史上初めて高校3年時にワールドカップの代表に選出され、当時の男子500メートルの世界ジュニア記録34秒88を樹立。
  • 平成15年 高校卒業後、三協精機(現日本電産サンキョー)に入社。加藤条治氏
  • 平成28年 日本電産サンキョースピードスケート部の選手兼監督に就任。
  • 平成29年 日本電産サンキョーを退社し、一般社団法人博慈会(東京都)に所属。
  • 令和4年3月 現役引退を表明。

主な戦績

  • オリンピック冬季競技大会に4大会連続出場し、出場したすべてのオリンピックで入賞

平成18年 トリノオリンピック 6位

平成22年 バンクーバーオリンピック 銅メダル

平成26年 ソチオリンピック 5位

平成30年 平昌オリンピック 6位

  • ワールドカップ優勝14回(男子500メートル 13回、男子100メートル 1回)
  • 平成17年に、当時の男子500メートル世界記録を樹立(34秒30)
  • ベストタイム 500メートル34秒21(平成25~31年までの日本記録)

努力を重ね世界のトップクラスで活躍

加藤条治氏は、高校時代から努力を重ねながら長期にわたって世界のトップクラスで活躍し、オリンピック冬季競技大会やワールドカップなどにおいて、数多くの輝かしい成績を収められた。

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