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更新日:2024年2月21日

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特集「三島通庸と山形県」三島通庸が関わった山形の近代化産業遺産

山形県の近代化産業遺産群 特集「三島通庸と山形県」三島通庸が関わった山形の近代化産業遺産

平成20年度に経済産業省が認定した「近代化産業遺産群 続33」では、山形県で26の産業遺産が認定れた。これらの産業遺産のうち、山形県の初代県令である三島通庸が行った事業が約半数を占める。
この特集では、これらの産業遺産について、三島通庸との関わりを紹介する。

初代山形県令、三島通庸

三島通庸は、1835年(天保6)薩摩藩の下級武士の長男として生まれる。幕末は精忠組の一員として、寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加。戊辰戦争が起こると西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、補給部隊として活躍する。
戊辰戦争後は、鹿児島都城の地頭に任命され地域振興の事業を行うが、この功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4年に東京府参事として新政府に出仕することになる。
東京府参事では東京銀座煉瓦街建設など、都市改造計画の行政側の実質責任者として活躍する。これらの経験は、後の山形県令時代の事業を達成するのに大きく役立った。
東京府参事から教部省の教部大丞を経て、明治7年に酒田県令として赴任し、明治9年に初代山形県令となる。
三島通庸が山形で過ごしたのは、明治7年から明治15年までの7年間である。この7年間で、山形県庁舎を中心とした都市整備事業や地方郡役所の建築、新道開削や石橋架橋の道路整備事業など、多くの実績を残し山形県の振興に尽力した。

三島通庸の肖像

初代山形県令、三島通庸

山形県政に対する志

三島通庸は山形県令に就任する際に、内務卿・大久保利通に県政運営の抱負を次のように述べている。

  • (1)道路を開き、運輸の便利を良くし、民力を養い、県民の目を広く外の世界へ開かせること。
  • (2)学校をつくり、人材養成に努めること。
  • (3)勧業、なかんづく製糸器械場を設け、博物館を開いて実物による教育を施すこと。
  • (4)病院を設立し、県民の健康維持を図るとともに、医学教育もおこなうこと。
  • (5)警察署とその分署を設置するなど、治安機構の確立を図ること。
  • (6)河川を改修し、これを運輸の動脈として利用促進すること。
  • (7)酒田港の改修をおこなうこと。
  • (幕内満雄著「評伝三島通庸」より)

これらの方針により、各地で新道開削、道路整備、擬洋風建築の建設などが行われた。
いくつかの建築物は、火事や時代の流れの中で消失してしまったが、多くが今なお遺産として残っている。

三島通庸が残した産業遺産

三島通庸が残した産業遺産の中で「近代化産業遺産群 続33」に認定された遺産を、その内容ごとに分類して紹介する。

山形県庁舎を中心とする新市街地の建設

旧済生館本館の写真

旧済生館本館

旧山形師範学校本館の写真

旧山形師範学校本館

三島通庸は、山形県庁舎を中心とする新市街地の建設を行い、市民に明治の新しい時代の到来を示した。
山形県庁舎を中心として都市計画道路を南側にまっすぐに伸ばし、道路の東側は警察署・師範学校・南山学校、西側には警察本署・南村山郡役所・勧業博物館・製糸場、少し離れて済生館など、県の主要な官署や施設が集中して作られた。
これらの建物は、当時は珍しい西洋風の建築で、市民たちはこれらの出現に驚き、また文明開化の到来を感じて新しい県政に期待を抱いた。
古くからの城下町は、三島通庸により近代的都市へと変貌を遂げ、人々に新しい国家の始まりを認識させた。
多くの建物は明治44年の山形市北大火で焼失してしまい、当時の建物として現在残っているのは、旧済生館本館と旧山形師範学校本館のみである。(現在の旧山形師範学校本館は明治34年に山形市緑町に新築移転したもの。)

地方郡役所などの建築(擬洋風建築の建設)

山形県庁舎の新市街地の他にも、多くの各地方の郡役所には西洋風の建築(擬洋風建築)が建てられている。
三島通庸が初めて赴任したのが酒田県であったが、当時の庄内地方は士族の反政府運動が盛んな所で、農民の暴動「ワッパ騒動」などもあり、統治が難しい地域であった。この難しい地域を治めるためには、強力な統治能力とともに、目に見える形での「新時代への期待」が必要であった。
城下に突如として建てられた西洋風の建物は、当時の人々を驚かせるとともに、新しい時代への期待を起こさせる狙いがあった。

旧西田川郡役所(鶴岡市)の写真

旧西田川郡役所(鶴岡市)

旧鶴岡警察署庁舎(鶴岡市)の写真

旧鶴岡警察署庁舎(鶴岡市)

旧西村山郡役所(寒河江市)の写真

旧西村山郡役所(寒河江市)

旧東村山郡役所(天童市)の写真

旧東村山郡役所(天童市)

山形県と他県を結ぶ新道開削の事業

三島通庸は、山形県と他県を結ぶ新道の開削事業でも多くの功績を残している。
山形県は周囲を山に囲まれており、隣接する地域との交流の停滞は、産業復興や経済発展を阻害するだけでなく、治安維持の面でも避けなければならないことであった。
そこで三島通庸は、政府の方針である東北開発事業の一環として、道路交通網の整備を行った。
「栗子隧道」は福島を通り東京と山形を結ぶ万世大路として、「関山隧道」は山形県と仙台を結ぶ関山新道として、「片洞門」は山形県と新潟県を結ぶ小国新道として開削された。

栗子隧道(米沢市)の写真

栗子隧道(米沢市)

関山隧道(東根市)の写真

関山隧道(東根市)

片洞門(小国町)の写真

片洞門(小国町)

山形県内の新道開削と道路整備の事業

三島通庸は、山形県内の新道開削と道路整備も行っており、上記の新道開削を含めた事業は道路23ヶ所、橋65ヶ所にも及ぶ。
当時の明治政府にとって、道路交通網の整備は殖産興業と富国強兵、治安維持の観点から急務であった。
あまりにも開発を急いだために、強引な道路施設や工事の工夫動員、増税などで庶民の反発を受け「土木県令」や「鬼県令」などと憎まれることもあった。
しかしながら、これらの事業は当時の人々の生活を向上させ、その後の山形県の発展に大きく寄与した。
下記の石橋は、秋田から山形・福島を結ぶ山形の中央幹線道路(現在の国道13号線)に架橋されており、明治天皇は巡行の際に、これらの橋を通って栗子隧道の開通式にのぞまれている。

堅磐橋(上山市)の写真

堅磐橋(上山市)

中山橋(上山市)の写真

中山橋(上山市)

吉田橋(南陽市)の写真

吉田橋(南陽市)

住民の要望による架橋事業

三島通庸は、政府の方針に基づく開発の他にも、地域住民の要望を取り入れた地域開発を行っている。
「新橋」や「覗橋」などがその例で、当時の架橋の経費は、基本的には地元住民の負担によるものであったが、住民の嘆願に応じてその不足分を補充した。また架橋の時には、アーチ型石橋の技術的な支援などを行っている。

新橋(上山市)の写真

新橋(上山市)

覗橋(上山市)の写真

覗橋(上山市)

年表で見る三島通庸の業績

年号   事項
1835年(天保6) 6月、三島通庸は、薩摩藩士・三島通純の長男として、薩摩藩城下に生まれた。
1871年(明治4) 西郷隆盛らの推挙で東京府庁に出仕する。その後、東京府庁の権参事、参事などを歴任し、教部省に転じて、教部大丞に就任する。
1874年(明治7) 12月3日、酒田県令に任命される。酒田県はその後鶴岡県となる。
1876年(明治9) 6月、鶴岡県に朝陽学校を竣工させる。42の教室と22人の教職員を有する東北一の学校であった。
8月21日、山形県、置賜県、鶴岡県が統合され統一「山形県」が成立し、三島通庸が初代の県令に任命される。県庁を山形町に置き、鶴岡町と米沢町に支庁を設けた。当時の山形県内の戸数は113,000余戸、人口は652,000余人であった。
10月29日、旅篭町旧万日寺跡に県庁と学校を新築することを布達する。
この年、菊池新学を県の御用写真師に任命し、土木・建築事業の記録写真を撮影させる。
1877年(明治10) 11月3日、県庁舎落成する。経費は21,000円、建坪481坪であったという記録がある。
1878年(明治11) 山形の千歳園に3,900坪の植物栽培試験場を開設し、梨、桜桃、杏、林檎、葡萄、桃などの果樹や、桑、茶、砂糖大根などの栽培を始めた。
9月、済生館落成する。以後3~4年の間に、警察本署、山形警察署、南村山郡役所、山形共立勧業博物館、勧業試験場などが次々に建設された。
10月、山形県師範学校開校する。建坪527坪、二層楼で、正面玄関は三層で時計台があった。
1879年(明治12) 1月、第一回県会議員選挙が実施される。3月1日、第一回の県会が招集される。
1881年(明治14) 鉄道拡張会社を発足し、太平洋側の野蒜(現東松島市)と日本海側の酒田町を結ぶ鉄道建設を計画した。
8月、洋画家高橋由一、三島県令の招きで山形に来る。
10月3日、明治天皇の巡幸を迎え、栗子隧道の開通式が挙行された。
1882年(明治15) 7月、三島は福島県令として転出する。
11月、関山隧道開通式。
1883年(明治16) 10月、栃木県令を兼任する。
1884年(明治17) 8~10月、高橋由一は三島県令の委嘱で、山形、福島、栃木三県の新道200図を写生する。
11月、内務省土木局長となる。
1885年(明治18) 12月、警視総監となる。
1888年(明治21) 10月23日、享年53歳で東京で逝去。

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コラム イザベラ・バードの山形の印象

イギリス女性旅行家のイザベラ・バードは、三島通庸が作った山形の町並みの印象を以下のように表現している。
「山形は県都で、人口二万一千の繁盛している町である。少し高まったところにしっかり位置しており、大通りの奥の正面に堂々と県庁があるので、日本の都会には珍しく重量感がある。・・・・新しい県庁の高くて白い建物が・・・・大きな驚きを与える。・・・・山形の街路は広くて清潔である。・・・・政府の建物は、ふつう見られる混合の様式ではあるが、ベランダをつけたしているので見ばえがする。県庁、裁判所、そして進歩した付属学校をもつ師範学校、それから警察署はいずれもりっぱな道路と町の繁栄にふさわしく調和している。大きな二階建ての病院は、丸屋根があって、百五十人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常にりっぱな設備で換気もよい。」(日本奥地紀行より)

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